生まれ育った場所は、自らの人生の一部。
自分自身のアイデンティティーが、
地元でどのように育まれ、
クリエイティビティーの源には、
どのような思いがあるのか。
活躍する地元出身者に、
本誌編集長・吉村慶一が話を訊く対談企画。
記念すべき第一回は、
栗原市若柳生まれの著名人、
宮藤官九郎さんです。

変な仲間ばかりだったので、
上京しても
誰とも話が合わなかった。(宮藤)

遊び場はいつも平野神社だった

宮藤 実はすごい近所に住んでいましたよね? 僕はだいたい小学校の時は平野神社で遊んでいましたね。
吉村 そうなんですよ。小学生の時は、くんちゃん(当時地元での宮藤さんのあだ名)のグループについて歩いていて、面倒を見てもらったというか。くんちゃんたちがザリガニ釣りとか、クワガタ捕りとかしていて、ちょこちょこ連れて行ってもらっていたんですよね!
宮藤 (岡本輪業の息子の)岡本さんが今日は何して遊ぶかを決める感じで(笑)。近くに駄菓子屋があって、そこでアイスやジュースを買ったりして、なんかずっと神社にいましたね〜。
吉村 あの頃は岡本さんとくんちゃん、(八百屋の息子の)けんちゃんと一緒で……。
宮藤 うんうん、岡本さんとけんくんと僕が同い年で、だいたいその3人で神社に行って。そうすると友だちが遊びに来る。そういえば弟がいましたよね?
吉村 います、います。僕と弟が「部落野球」の朝練が始まる朝5時ぐらいに、くんちゃんを起こしにいく役目だったんですよ!

宮藤 そうだ、小学校5、6年生の時だ。岡本さんのお父さんが監督だったんですけど、異常に厳しくてね〜。朝のラジオ体操の前に1時間も練習するんですよ。ラジオ体操やった後にまた練習(笑)。午前中も練習で午後も練習っていう。ずっと野球の練習をやって(笑)。
吉村 当時、地元に住む男子は、当たり前に野球をやっていましたよね。
宮藤 野球はね、強制ではないんだけれど、入らないほうが難しいんだよね(笑)。やらないっていう選択肢があるようでないというか。よっぽど下手じゃないとやらなくていいということにならない。それで岡本輪業のお父さんが本当に厳しくて、だんだんエスカレートして。ラジオ体操の前はいくらなんでも早いだろうって思ったんだけど、朝5時からキャッチボールして。それからラジオ体操の後も家に帰らないでそのまま野球やってみたいな。いや覚えてるわー! あの何ていうの平野神社から川沿いに歩いて行ったとこにある。
吉村 ちびっこ広場。
宮藤 そう(笑)! そこでキャッチボールして。毎日遊んでいたから、何か思い出しますね〜。

伝説の築高で伝説を作った

宮藤 築館高校の後輩ってことは、じゃあもう応援団がなくなって平和になってから?
吉村 はい、でも応援団みたいな生徒会で、ちょっとだけ名残がありました。
宮藤 応援団がものすごくスパルタでね! そのピークを迎えたのが僕の世代だったんですよ。高校3年の年に応援団が廃部になったんです。応援練習で、僕ら上級生からボコボコにされたんで、3年生になって、今まで散々やられたから、ようやくやる番だと思ったら応援団自体がなくなったので、やり場がなくなったよね(笑)。
吉村 くんちゃんの本(『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』)を読んだんですけど、「対面式」の話が強烈に印象に残っていて。
宮藤 そう!(笑)。あれは本当の話なんだよね! 対面式では新入生が先輩の前で頭を下げて、10秒数えてから頭を上げなきゃいけないんですけど、「オスッ!」って頭をあげるとだいたい「早いっ!!!」って500人ぐらいいる先輩が(上履きの)雪駄で床をドンドン鳴らすんです。すんごい怖くて、それで「もう一回やれ!」って言われてやると、今度は「遅いっ!!!」って言われるという(笑)。
一同 (笑)。
吉村 入学して2週間以内ぐらいですよね。
宮藤 自転車の追い越し方とかね(笑)。通学途中に道で先輩に会ったら「○年○組の○○、追い越します!」と言って追い越さなきゃいけない。だからわざと先輩がすごくゆっくり走るものだから、追い越しますを言わなきゃいけなくなったりね。その予行演習を対面式でやるんですけど、追い越すとちょうど応援団の団旗が床に置いてあってそれを踏んじゃうんですよ。そうすると、ものすごく怒られるんです(笑)。
吉村 マンガみたいですよね!(笑)。
宮藤 本当に!今やってたら大問題ですから!(笑)。
吉村 そんなバンカラな築高に進学した理由は、何だったんですか?
宮藤 あの頃、地元の男子の進学先は、栗農(栗原農業高校)、築高、若高で、たいてい築高に行ったよね? 若柳高校は共学ですけど女子の人数が多くて、男子が1クラスぐらいしかなかった。頭がいいと一関(一関第一高校)ですけど、僕は一関に入れなかったので、消去法で築高だなと。逆に築高に行くのは、迷いがなかった?
吉村 迷いなくですね。若柳は女子が多いので。あと栗農は農業なので、築館かなと。
宮藤 僕は入学してすごく後悔したけど(笑)。応援練習の数週間で本当に嫌になって、ゴールデンウイーク頃までは毎日学校を辞めようと思っていました。結局は卒業しましたけど。部活は何かやっていた?
吉村 サッカー部でした。
宮藤 サッカー部の顧問の先生は誰だっけ?
吉村 チェルです。
宮藤 チェル!(爆笑)。名前の由来はちょっと書けないけどね。懐かしいなあ! なんでこんなに覚えているんだろう(笑)。棒倒しはやっていた?
吉村 やっていました(笑)。私が1年の時に打ち切りになりましたけど。
宮藤 そうなんだ。朝4時に起きて、すごく長い竹竿を全員で担いで歩いて学校まで行って、それを立てて棒倒しをするんです。若柳と、隣町の志波姫の生徒だけでやるんですけど、「ワーッ!!」ってものすごい勢いで走ってくるのが、どっちの町でもない、関係ない先輩なんですよ。ただ暴れたいだけの(笑)。あの頃はなんの疑問も持たなかったけど、今思うとよく学校に行っていたなぁ(笑)。
吉村 雪駄が標準の上靴の時代でしたよね?
宮藤 標準ですね。外は下駄が標準で。下駄は履いていた?
吉村 私たちの時は、履いていなかったです。変わりました。
宮藤 やっぱり僕らのあとで変わったんだ(笑)。
吉村 外履きは変わりましたけど、室内は雪駄でしたね。
宮藤 雪駄だけは残っていたんだ〜。僕は卒業まで下駄で、真冬も下駄で通っていましたね。
吉村 そういえば二つ上の先輩から聞いたんですけど、くんちゃん先輩が水泳大会の時に、ハイレグを着ていたと……。
一同 (爆笑)。
宮藤 (爆笑)!!! もう僕ね、頭がおかしかったんですよ。本当にそんなのばっかりですよ(笑)。
吉村 かなり伝説でしたよ!(笑)。
宮藤 築高に入ってから、ちょっと解放されたのかもしれないなぁ! だから、東京に出てきてから苦労しましたね。変な友達ばっかりだったので、東京に来て誰とも話が合わなかったですよね〜。
吉村 高校時代はバスケ部で、それと並行してラジオ番組の投稿にも熱心だったんですよね?
宮藤 僕は典型的な“おだづもっこ(仙台弁でお調子者)” と言われていたんですよね。小学校の時の集まりとかでもそうだし、文化祭でも学園祭でもお楽しみ会とかでもそうですけど、当時は僕が何かをやるというイメージができあがっていて、それに応えなきゃいけないという、そのプレッシャーだけでずっと生きていましたよね(笑)。今もそうなんだけど(笑)。だからあんまり変わってないかもしれない。中学の時に生徒会長をやって、高校時代はバスケ部の部長だったんですよ。中学の時に今でいうリア充の人たちはもう生徒会とかやらないじゃないですか。普通に女子と仲良くなっていくじゃないですか。何かそこから取り残されていくんですよね(笑)。岡本さんと一緒に、何かみんながビックリするようなことをやろうみたいな(笑)。
吉村 僕の記憶が確かならば、小学校の謝恩会の時に、くんちゃんと岡本さんが(細川たかしの)「北酒場」のパロディーを歌っていましたよね?(笑)。
宮藤 やったやった(笑)。
吉村 子どもながらに大爆笑していたのをすごく覚えていて。
宮藤 何が面白かったのか、全然思い出せないですけど。
吉村 いつもふざけて周りを笑わせていましたよね!
宮藤 大体そうですね。うちの父も酔っ払うと、だいたいそんな感じだったんですよね。
吉村 小学校の校長先生でしたよね?
宮藤 そう。家ではすごく厳しいんですけど、どうも家族の見てないところでは、大して僕と変わらない感じだったと聞きましたね。

宮藤 築館高校の後輩ってことは、じゃあもう応援団がなくなって平和になってから?
吉村 はい、でも応援団みたいな生徒会で、ちょっとだけ名残がありました。
宮藤 応援団がものすごくスパルタでね! そのピークを迎えたのが僕の世代だったんですよ。高校3年の年に応援団が廃部になったんです。応援練習で、僕ら上級生からボコボコにされたんで、3年生になって、今まで散々やられたから、ようやくやる番だと思ったら応援団自体がなくなったので、やり場がなくなったよね(笑)。
吉村 くんちゃんの本(『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』)を読んだんですけど、「対面式」の話が強烈に印象に残っていて。
宮藤 そう!(笑)。あれは本当の話なんだよね! 対面式では新入生が先輩の前で頭を下げて、10秒数えてから頭を上げなきゃいけないんですけど、「オスッ!」って頭をあげるとだいたい「早いっ!!!」って500人ぐらいいる先輩が(上履きの)雪駄で床をドンドン鳴らすんです。すんごい怖くて、それで「もう一回やれ!」って言われてやると、今度は「遅いっ!!!」って言われるという(笑)。

一同 (笑)。
吉村 入学して2週間以内ぐらいですよね。
宮藤 自転車の追い越し方とかね(笑)。通学途中に道で先輩に会ったら「○年○組の○○、追い越します!」と言って追い越さなきゃいけない。だからわざと先輩がすごくゆっくり走るものだから、追い越しますを言わなきゃいけなくなったりね。その予行演習を対面式でやるんですけど、追い越すとちょうど応援団の団旗が床に置いてあってそれを踏んじゃうんですよ。そうすると、ものすごく怒られるんです(笑)。
吉村 マンガみたいですよね!(笑)。
宮藤 本当に!今やってたら大問題ですから!(笑)。
吉村 そんなバンカラな築高に進学した理由は、何だったんですか?
宮藤 あの頃、地元の男子の進学先は、栗農(栗原農業高校)、築高、若高で、たいてい築高に行ったよね? 若柳高校は共学ですけど女子の人数が多くて、男子が1クラスぐらいしかなかった。頭がいいと一関(一関第一高校)ですけど、僕は一関に入れなかったので、消去法で築高だなと。逆に築高に行くのは、迷いがなかった?

吉村 迷いなくですね。若柳は女子が多いので。あと栗農は農業なので、築館かなと。
宮藤 僕は入学してすごく後悔したけど(笑)。応援練習の数週間で本当に嫌になって、ゴールデンウイーク頃までは毎日学校を辞めようと思っていました。結局は卒業しましたけど。部活は何かやっていた?
吉村 サッカー部でした。
宮藤 サッカー部の顧問の先生は誰だっけ?
吉村 チェルです。
宮藤 チェル!(爆笑)。名前の由来はちょっと書けないけどね。懐かしいなあ! なんでこんなに覚えているんだろう(笑)。棒倒しはやっていた?
吉村 やっていました(笑)。私が1年の時に打ち切りになりましたけど。
宮藤 そうなんだ。朝4時に起きて、すごく長い竹竿を全員で担いで歩いて学校まで行って、それを立てて棒倒しをするんです。若柳と、隣町の志波姫の生徒だけでやるんですけど、「ワーッ!!」ってものすごい勢いで走ってくるのが、どっちの町でもない、関係ない先輩なんですよ。ただ暴れたいだけの(笑)。あの頃はなんの疑問も持たなかったけど、

あの頃はなんの疑問も持たなかったけど、今思うとよく学校に行っていたなぁ(笑)。
吉村 雪駄が標準の上靴の時代でしたよね?
宮藤 標準ですね。外は下駄が標準で。下駄は履いていた?
吉村 私たちの時は、履いていなかったです。変わりました。
宮藤 やっぱり僕らのあとで変わったんだ(笑)。
吉村 外履きは変わりましたけど、室内は雪駄でしたね。
宮藤 雪駄だけは残っていたんだ〜。僕は卒業まで下駄で、真冬も下駄で通っていましたね。
吉村 そういえば二つ上の先輩から聞いたんですけど、くんちゃん先輩が水泳大会の時に、ハイレグを着ていたと……。
一同 (爆笑)。
宮藤 (爆笑)!!! もう僕ね、頭がおかしかったんですよ。本当にそんなのばっかりですよ(笑)。
吉村 かなり伝説でしたよ!(笑)。
宮藤 築高に入ってから、ちょっと解放されたのかもしれないなぁ! だから、東京に出てきてから苦労しましたね。変な友達ばっかりだったので、東京に来て誰とも話が合わなかったですよね〜。
吉村 高校時代はバスケ部で、それと並行してラジオ番組の

投稿にも熱心だったんですよね?
宮藤 僕は典型的な“おだづもっこ(仙台弁でお調子者)” と言われていたんですよね。小学校の時の集まりとかでもそうだし、文化祭でも学園祭でもお楽しみ会とかでもそうですけど、当時は僕が何かをやるというイメージができあがっていて、それに応えなきゃいけないという、そのプレッシャーだけでずっと生きていましたよね(笑)。今もそうなんだけど(笑)。だからあんまり変わってないかもしれない。中学の時に生徒会長をやって、高校時代はバスケ部の部長だったんですよ。中学の時に今でいうリア充の人たちはもう生徒会とかやらないじゃないですか。普通に女子と仲良くなっていくじゃないですか。何かそこから取り残されていくんですよね(笑)。岡本さんと一緒に、何かみんながビックリするようなことをやろうみたいな(笑)。
吉村 僕の記憶が確かならば、小学校の謝恩会の時に、くんちゃんと岡本さんが(細川たかしの)「北酒場」のパロディーを歌っていましたよね?(笑)。
宮藤 やったやった(笑)。
吉村 子どもながらに大爆笑していたのをすごく覚えていて。

宮藤 何が面白かったのか、全然思い出せないですけど。
吉村 いつもふざけて周りを笑わせていましたよね!
宮藤 大体そうですね。うちの父も酔っ払うと、だいたいそんな感じだったんですよね。
吉村 小学校の校長先生でしたよね?
宮藤 そう。家ではすごく厳しいんですけど、どうも家族の見てないところでは、大して僕と変わらない感じだったと聞きましたね。

1/3

NEXT >

夢で見る風景は、
今でも地元の若柳なんです。